からづつみ西・北1 平成20年4月6日 所在地:鳥取市東町
春です。桜が満開。昨日今日の土日は、桜まつりと城まつりが催され、桜の名所はどこも人で一杯。車も置けない。

人が右に行けば私は左。性格が捻くれているのでしょうか。いや本当は花見したいのですが。

円護寺の吉川経家公の墓所に駐車し山に入ろうとしていると、珍しく農家の方が一輪車を押して通られます。早速声をかけ話を聞きます。

この経家公の墓所は昔と同じ位置にある。しかし、この道路は昔は田圃で墓所より少し低かったが、今は深さ何メートルも掘り下げたのだと。
画面中央の遊歩道の法面は昔から草刈りをしていたので間違いなくあったが、今ほど高くはなかった。法面の途中の高さに田圃が接していたようだ。

その手前の川は、昔は墓所の北側にあったが付け替えたそうだ。

何故昔の地形を調べるのかと言えば、中央の樹木の向こうには葭原(よしはら)神社があって、この尾根の上には羽柴秀長勢の守る五反田平の陣所があります。尾根先端の神社は、天正9年に最前線の砦として使われた場所の可能性が高いのです。
遊歩道を歩いて久松山・太閤ヶ平の分岐に着く。ここを左に太閤ヶ平方面に進む。

入ってすぐ右下の斜面を見ると、からづつみ西平坦地に下っていくコースが見て取れた。寄り道します。西平坦地をフラフラ歩きながらからづつみに降りる。
久しぶりにからづつみの水面まで降りてみる。

以前、鳥取市の城郭研究家の吉田浅雄氏と話していた時、この堤は水が無いから空堤と呼ぶ。しかし昔は水を湛えていて、堤に放水口の跡があるので見ておくようにと言われた。今日は他の調査で時間がないからパス。
堤の北端に満水時の放水路がある。放水路の下と横を確認する。苔を剥がすと石垣が組まれている。
からづつみ西平坦地を調べてみる。

吉田氏は以前「羽柴秀吉の天正鳥取陣営跡之図」の中で、ここを「後年江戸期のつつみ構築の採土跡か その上方尾根は陣跡と推定」と書かれている。

しかし、私が昨年羽柴秀長陣所の西麓に広い郭を発見したため吉田氏は考えを変えた。

秀長の陣所の前面に武将を配置するのなら、ここに兵士が居たと考える方が自然だ。堤構築時に加工されたとしても、天正9年にも郭があったはずで、位置を考えてここが空白であったはずがない。私の考えも同一です。
しかし、江戸期に加工されたとすれば、その前の姿を考えることは不可能に近い。以前の姿を復元できるような証拠がないからだ。永遠の謎。

先程書いたように、吉田氏はここを江戸期の遺構と考えて書き記した。氏は藩政期の遺構に余り興味がないので、かなり適当に書かれている。

縄張り図というほどでなくても、配置図を書こうと行ったり来たりしました。東端から書き始めたら、西側の上下の郭が整合しなくなってきた。書いていると吉田氏の縄張り図と全然違う姿になる。削り残しと思っていた場所が土塁である可能性が強くなってきた。
この石は階段ですね。他に石列もあります。

歩いていて、とても工事の採土跡や現場事務所ではないと気付いた。これこそ陣城の跡。谷の下側に対して防御構造を作っている。
場所によっては藪になりかけている所もある。
周囲をを歩いていると、西平坦地に接して山側に道の痕跡がある。

人が歩いて出来た道ではない。削って加工した道だ。
道を上に進む。写真は下側を向いて撮影。

道は斜度を上げながら北方向に上がっている。
さらに登ると道は大きく窪んでいた。斜面を堀切って作られている。
道は谷側が土塁状になっていて、一番高い地点では胸まである。
下側を見る。道の幅は2m程か。横が土塁状になっている区間は長さ20m程だが。かなりの加工をしている。

右側の樹木邪魔ですね。写真を撮影しても向こうが見えない。今度剪定鋏で切るか?
道を登り詰めると遊歩道に出た。遊歩道との出合はさらに広い。今まで何十回も歩いていて全く気付かなかった。

手前に枯れ木が倒れていますが、これは林業関係者が置いたものかもしれません。道に迷う人が出ないために手前に樹木を置いて道を隠すのです。
図は吉田浅雄氏の「羽柴秀吉の天正鳥取陣営跡之図」に付属する「本陣及び付近遺構要図」の部分です。

赤線が見つけた道で、AB間の距離は歩測で18m。

道の始まりは西平坦地の西端に近い。どう考えても羽柴秀長陣所の大平(おおなる)に接続する道です。

この道の用途をからづつみ構築の石材運びのためとするなら、反対側は西平坦地の他の地点に接続すべきだし、西から道を付けた方が遙かに楽だ。
からづつみの周辺の植林の道と考えるのも同じ理由で無理がある。

天正9年の秀吉の鳥取城包囲網の時しか道の用途がない。やはり、からづつみ西平坦地は陣所だったのだろうか。
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