五反田平・次北尾根嵩み1 平成19年11月30日 所在地:鳥取市円護寺・東町
一週間前の鳥取城包囲網歩きが楽しかったので、今日も山を歩こうと昼前に外出しました。

吉川経家公の墓所に駐車して遊歩道を歩いていたら、突然五反田平に登りたくなってしまった。

遊歩道脇の斜面を直登していく。
山頂に近づくと地岩が。
五反田平の陣所。これは西側の土塁。右が虎口で左は土塁の幅が広い。櫓でも有ったのだろうか。

今日は弁当持参なので、早速陣所に座り込んで腹ごしらえをした。

食事を済ませて、今度は五反田平の縄張り図を書いてみる。私は本来渓流師で、まともな物を書けるわけがないのだが練習してみる。
東の土塁。この土塁は四角錐のような形をしていて訳が判らない。これの右側が虎口なのだが、何故左が低く厚さが薄いのか不思議だ。
そして上の土塁の左には、下の郭に降りる土橋状のスロープが造られている。虎口の反対にわざわざ別の入口を作る理由が判らない。

下手くそな縄張り図を書いた後は、五反田平から下の図B地点の遊歩道に降り右の谷に進入する。
谷は少し藪もあるが、すぐに開けていて歩きやすくなる。それもその筈、この谷は自然状態ではなく、道として加工された跡がある。

歩いていると下の図C地点で、道と標高差のない削平地がある。その上の斜面を見ると、僅か2〜3畳の小削平地らしき物がポツポツと連続している。

しかし、樹木の根が倒伏しても削平と似た地形が出来ることもある。安易に遺構とは判断できない。注意が必要だ。
さらに下ると東からの谷と出合う。道はそちらにもあり、そちらが本道のようだ。

合わさった道は橋が架かっていたようで、川を渡る地点に石垣が組んであった。

下の図D地点。
上の写真の右奥方向から同じ石垣を撮影。

この道が国土地理院の地図に記載されている道のようだ。
橋の反対が架かっていた石垣。
道は明確だ。どの時代に出来た道なのだろう。江戸時代はお城山という特殊な条件で、一般の人間の通行は出来なかったはずだ。
図は吉田浅雄氏の「天正鳥取陣営跡之図」
道を下っていると北側の斜面に削平地らしき物が見える。

E地点。
斜面を登るとまた加工したような痕跡が。これは土塁なのか。
なかなか判定が難しい。
地滑りっぽい気もするが、削平の可能性を否定できない。でも天正9年に結びつけるのも問題だ。
地岩か石垣なのか判断がつかない。
これはごく最近の物だろう。だけど何に使った物なのか。
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