秀長陣所と中尾根西 平成20年4月20日 所在地:鳥取市円護寺・東町
雨が良く降り、山に入れる状態ではなかった。
久しぶりの天気で、お休みだった秀吉の鳥取城包囲網の遺構探しに山に入る。

鳥取市円護寺の吉川経家公の墓所に駐車。遊歩道を歩く。途中道端に白花のイカリソウが咲いていた。春はあっという間に過ぎて行く。
本日のコース図。
図は鳥取の城郭研究家吉田浅雄氏の「羽柴秀吉の天正鳥取陣営跡之図」に付属する「本陣及び付近遺構要図」の部分です。

昨年、私が羽柴秀長陣所の大平(おおなる)の西麓にAの郭を見つけました。これを吉田氏はもう一つ北西の尾根にある遺構と共に「羽柴秀長陣所西山麓尾根上遺構」と名付けられました。

特にA尾根の陣所は、氏の計測で長さ65m広さ900u(272坪)もある大きな郭です。多数の兵士が3ヶ月半の長期間駐屯をするとなれば、当然整備された道が必要となります。

遊歩道の位置に昔からの道があったにしても、戦闘時には敵の前を通ることとなります。ABを繋ぐ道は別に造るべきで、複数の道を確保しておくのが戦の絶対条件です。

昨年、緑のルートAからBに直登したのですが、Aの山側は切岸が切ってあり、その上も急斜面で道はありません。今日は東側に道がないか調べるため、斜面を大平に登ってみました。残念ながら道の痕跡は見つかりませんでした。
続いて羽柴秀長野陣所の道も調べます。羽柴秀吉の副将と言われた秀長の陣所の大手道は何処なのでしょう。

大平からC谷を下ると直ぐに右側に段があります。この時は考えなかったのですが、これは道の跡なのか?
谷道は最初は藪もありましたが、傾斜も穏やかで良い道です。
上の写真の直ぐ先。これなら馬でも登れそうです。この道が大手道なのでしょうか。

ひょっとして、この道を馬で登り大平の南にある腰曲輪に馬を繋いだのでしょうか。
今まで全く気にしなかったのですが、大平横の空堀から尾根郭の先端までの遊歩道Eは深くえぐれています。

ここは天正9年に道を掘り込んだ可能性があります。1人しか通れない道は敵兵の進入を妨げ、横の尾根郭から簡単に攻撃できます。

これが自然の摩耗で窪んだとするのは、場所を考えると余りにできすぎです。その後427年間の使用を考えても、横の土塁状の部分はその時の痕跡を残しているのではないでしょうか。

先日、この近くで見つけた道Fのように、使われなくなった道は検証が楽なのですが、その後も使われた道の場合は正確な答えはでません。
尾根郭Dを登ります。
尾根郭の道は、最初郭の真ん中を通り、その後尾根の東横を通ります。

残念ながらこの部分はウラジロが密生しています。上に乗っても地面に足が着かない程です。ここから遊歩道は直ぐ下に見えます。

この後道はまた郭の中を通ります。この尾根郭を通る道は大手道ではないでしょう。

戦闘時は秀長陣所の東連郭の道を使うにしても、やはりCの谷道が大手でしょうか。
秀長陣所の大平を歩き、道の痕跡を探します。

大平の虎口は何処なのでしょう。これは西端にある道の跡。スロープ状に登ってきます。
秀長の陣所を調べた後、先日見つけた道Fでからづつみに下ります。

数日降り続いた雨で堤の水が多くなっています。普段より1m以上水位が高い。
堤を反対に渡り、下流側に進む道をたどります。

堤の下流側はジュウモンジシダの群落になっています。
道は堤の下流側少しの区間が不明瞭ですが、しばらく進むと明確な道となります。

この道は以前歩いた奥水道(ひょうたん池)上流側の道と繋がっています。
道を下流側に進み、出会った谷に入ると、目の前に広い緩斜面Gがありました。狭まった水の流れる谷ではなく広い空間が作られています。自然の地形でこのような場所を見たことがありません。尾根や奥の斜面をを削ってこの緩斜面に土を入れたのか、加工されたにしても元の姿が想像できない不思議な地形です。
斜面の横には尾根があります。尾根は自然の防塁。
尾根に近づき下側を撮影。
この地形を下の略図で説明します。但しこの図はサイズや形状・位置関係もかなり適当な物です。

緩斜面部Gの谷下側20mは傾斜が少し急ですが、その上は緩斜面になっています。奥行きは30m、利用できる有効な部分の幅は25m程。尾根の幅は下部は狭いですが途中の最大幅は5m程。上部平坦面Hは削平したのか少し低くなり、ほぼ水平で最大幅14m程あります。ここの形状は緩斜面が同じ高さになり、南の谷との境界も不明瞭なのでかなりいい加減です。

尾根の谷下には削平地があります。N郭は南北長21m東西幅15m、西側の部分が少し傾斜しています。O郭は南北長18m東西幅7mで、段差でNより1m〜1.3m低くなっており、川との標高差は僅かです。ここは平らですがイノシシが盛大に掘り起こしています。Pは南北長21m程あり、道より高くなっていて傾斜面です。上の尾根から土が崩落したことを考えると郭だったのかもしれません。

谷側の郭から見ると尾根は高い所で高さ10m位はありそうです。谷側斜面は急傾斜で登るのも苦しいです。

この陣所は位置や構造から考えて、天正9年(1581年)羽柴秀吉の鳥取城責めの時構築された物だと思います。これは水道谷の中でもかなり攻撃性の強い郭です。尾根を利用することにより、敵兵が進入してきても容易に防御できると思います。

後日、この郭の東斜面Q地点に小さな郭が見つかりました。見張り用の繋ぎ郭でしょう。
尾根上側の平坦面から南西方向を見ると、直ぐ先に3月9日に歩いた三角郭Iの尾根が見えます。平坦面Hから南の谷側はとても緩やかな地形なので、そのまま三角郭に行ってみました。距離も近いし行き来も楽です。どうもこの三角郭はGの守備範囲だったようです。

ついでなので、まだ調べていない尾根Jを下って道に降りました。尾根に加工の跡はありません。道を上流側に進み、先程の尾根の下の郭を歩測で計りました。ここは杉林になっています。その後尾根を這い登ります。

緩斜面Gに戻って、次は尾根Kを登り調査。尾根に加工の跡は何もなく、空堀地点Lにたどり着く。ここからは最初のコース図を見て下さい。その後斜面を下っていくとM地点で道に出会いました。

何処に繋がる道か調べるために下ると、からづつみの堤の上を通っていました。高さ2m程の地点です。上流側を調べると空堀付近で不明となり、後日の調査でからづつみ横の空堀最先端に繋がっていることを確認しました。

後になって、この道は今日堤から下流側に進んだ道と繋がる一本の道だったことが判明しました。以前、ひょうたん池の上の植林作業用と思っていた道は、ひょうたん池上流から空堀への一本の道だったのです。古い道の可能性が出てきました。もしかすると天正9年に作られた道なのかもしれません。
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