水道谷と栗谷北斜面1 平成20年5月23日 所在地:鳥取市東町・栗谷町
天正9年、羽柴秀吉の鳥取城包囲網で鳥取城側の吉川経家勢が秀吉陣を攻めるとすれば、谷の中では水道谷が一番打って出やすいだろう。

水道谷とは、後の江戸期に増えた家臣団に水を供給するため、池を造成して水道施設を造ったためそう呼ばれる。

この谷の中で、最も狭い部分はひょうたん池(奥水道)の下流側だ。写真のように両側が岩盤で狭くなっている。

下の図A地点。
西の岩場を見上げる。この上は砦となっており、秀吉勢が谷を監視していた。非常に防御には都合が良い地形だ。図B地点。

もちろん谷を遡る敵兵は、この岩から鉄砲や弓で攻撃される。
上の岩の左側部分C地点を側面から写す。

鉄砲や矢を避けるため、死角の崖下を進もうとすれば、上からの落石を受けるだろう。

落石は武士でなくても農民でも出来る攻撃法。当時の兵士は、昔から落石の恐怖をその負傷兵を見て学んでいる。
東の斜面Dを見上げる。

急斜面で迂回はできない、ここに進入した兵士は谷を遡るしかない。
岩の関門A地点を避けて左に迂回すると岩Eがある。ここにも兵士が居たのであろう。
図は、鳥取市の城郭研究家 吉田浅雄氏の「羽柴秀長陣縄張図(平成19年12月2日作成)」の部分を使用しています。
Fには岩に回り込む道の跡がある。
岩の上Gには土塁の跡か土の盛り上がりある。
谷を左に回り込むH地点の様子。狭い範囲なのでここに柵を設ければ敵兵の進軍は阻める。
I に残る道の跡。この道はJKの道と繋がっている。しかし、これは後で接続した物だろう。
その先Lの道。中水道に水没する道だ。春に来た時は、雪解け水で中水道の水位が高く、本当に水没する道だった。

この道はJの手前で途切れている。何時の時代の道かは不明だが、中水道を造成する前なのは確かだ。
遊歩道を南西に進みPの遺構を見る。
土塁の跡。
角度を変えて撮影。中央が上の土塁。
西より郭Pを見る。郭は一段高く作られている。西からの攻撃に備え、NOの出郭として築かれたようだ。
その先に中水道の放水路がある。江戸の藩政期に造ったものか。

大雨の異常増水時に水道谷の水を栗谷に流し、下流に武家屋敷の多い水道谷の被害減少考えたのだろう。
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