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岩美町荒金 行者山(ぎょうじゃさん)4 平成26年10月25日 所在地:鳥取県岩美郡岩美町荒金  HPアップ 平成27年2月5日
ロープは斜面をジグザグに登ります。 曲がると正面に岩壁が見えます。でも傾斜があり直登は疲れそうです。
斜め左に登って岩壁に近づきます。
今は崩落で土の道ですが、土の下に百段の石段が埋もれているそうです。
掘ってみたい。
次に右に曲がると行者堂が見えました。
地図を再掲。
行者堂です。

登山口からの距離は短いのですが、足元が悪いのでちょっと疲れました。
行者堂の先には大日堂が並んでいます。
岩壁の下は幅も狭く、撮影位置も限られます。後に下がろうにも一歩もバック出来ません。
行者堂の扉はトラロープの端切れで結ばれていました。
開けて入ると、仏具が散乱しています。
前鬼・後鬼を従えた役行者。
このお顔を拝みに来ました。

像は明治8年(1875)作とされています。

高下駄は脱いでおられますが、元は一段高く奉られ、下駄を履かれていたのでしょうか。
(平成27年12月26日 追記)
岩美町の金峯神社を調べていて『因幡之国牧谷村 龍王寺と金峯神社誌』
(堀英明著)を見つけた。

本といっても出版されたものでなく、郷土史家が地域の歴史が消えてしまうのを防ごうと、今まで残された文書をまとめ、写真を貼り製本したものだ。
この本に、荒金行者山のことが書かれていて、P140に、この像の板座の裏に「明治八年亥十一月日、鳥取新町住人大仏師赤松平次郎作」と書かれているとのこと。

『龍王寺と金峯神社誌』は鳥取県立図書館に2部、岩美町立図書館に1部置かれている。館内閲覧のみで貸し出しはされない。
少しお顔を拡大。口を開けて笑っておられます。
色は剥げてますが、昔の彩色が残っている。
お堂は崖に接して建てられており、内部は岩壁が剥き出しでした。
行者堂の先の奥の院 大日堂。 覆い屋内部はかなり痛んでいます。
大日堂の役行者像。

この像は銘文から1701年作とのこと。

(追記)
上記『龍王寺と金峯神社誌』には、この像の右肩に
「辛己元禄十四歳六月初七日、権大僧都吉祥院順教作之」と墨書があると記されている。
大日堂の先には、羽柴秀吉が行者山を焼き討ちした焼け残りと言われる炭の塊があります。これはさらに古い木像とのこと。 表面は良く焼けているが中は燃え残っている。秀吉の鳥取城攻めは天正8年と天正9年。この像が焼かれたのは、第一次鳥取城攻めの天正8年(1580年)だろうか。
岩壁の岩質は風化しきっていて、押すとジトッと潰れる所もあります。珪藻土の柔らかな物と似ています。簡単に掘れそうです。

行者堂も岩壁を掘って作られた物か。
簡素な作りの行者堂。地元の人々の信仰心で守られてきた。
周辺の人口が多ければ、これより大きなお堂が作られていただろう。

宗教には全く無頓着な私ですが、こういう素朴な伝承は好きです。
行者堂から斜面を見下ろす。

行者山について聞きたいと思い、岩美町役場を通じ、詳しい地元の方を探して頂いたが、今は山に入る人も少なく、高齢化でよく分からないとのこと。

岩美町の「議会だよりNo.116」からの引用ですが
「最盛期には、数多くの仏閣伽藍が建てられ、修験者・僧兵も数多くいたが、豊臣秀吉の鳥取城攻めの際に焼き討ちにあったとされ、それ以降再建されることなく現在にいたっていると伝えられています。」とある。

修験道の山としては、登ってきた道以外にも、他の修行コースがあったと思う、しかしそれもこの崩落の激しい山では今は昔。
行きでは、先に何があるかわからず怖かった道も、一度通ればそう気になりません。ロープに体重をかけ、結構スタスタと歩きます。 いや本当は降りの方が危ないのですが。
帰りは写真を撮りながら降りました。行者堂から登山口まで45分でした。
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