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恩志呂神社・上ノ山城 平成27年4月7日 所在地:鳥取県岩美郡岩美町恩志(おんじ)
 恩志呂(おじろ)神社・上ノ山城は国道9号の直ぐ横にあり、川沿いの独立小丘陵です。
 国道から見ると山の東斜面が山頂まで丸裸になっていました。
 写真は4月26日に撮影したものです。
 恩志呂神社の灯籠。桜の絨毯が綺麗でした。

 灯籠が傾いてい見えるのは、デジカメの広角のせい。
 かっての街道が、川のどちらにあったかは不明ですが、交通の要所で川の通行も監視できます。
 直ぐ南西に岩山城があり、その出城とも考えられます。しかし城主など詳細は不明です。

 また、南西3.2kmには因幡守護所の二上山城があり、岩美町かっての巨濃郡(こののこおり)は
 但馬・因幡の山名同族の騒乱の地です。周辺の山は城が多く、この地図の範囲で10城位はあります。

鳥居。
左奥の広場に遊具がある。
山の東斜面の竹は全部切られています。
最初の石段を登ると、すぐ小さな平地がある。

この手前右に、参道改修記念碑があります。昭和52年7月に改修したようだ。
次の少し長い石段の上にも平地が有る。
下の縄張図C地点。
山の斜面を見る。傾斜は40度位か。

切った竹はまとめてある。竹が蔓延って切ったのでしょうが、御陰で地表の様子が良くわかります。まるでお城屋さんのために切ったようです。
門かと思ったが違うようだ。
縄張図B地点。
上下2段になっています。
拝殿
本殿右に摂社がある。 恩志呂神社本殿
本殿の左奥の細尾根を直登しようと、中央左の木まで登ると 左下に腰曲輪のような平坦面が見えた。主郭に行くのを止めて歩く。
最初は腰曲輪と思っていたが、あとでこれが正規の登城道だとわかる。
下を見ると急傾斜で落ちている。
この竹を全部山裾に落とせば、下からの敵の侵入は無いだろう。
もちろん、このままでも大きな障害になる。
今から四百数十年前は、もっと平坦な面だったろう。
主郭に行く。 細長い曲輪だ。
主郭南西端に露岩がある。長さ8m、幅2.5m程。
上ノ山城でこの岩が一番高い位置にある。
南端から主郭を振り返る。主郭は傾斜していて、南が高く北が低い。
主郭から下を見下ろす。下方の竹の下が腰曲輪。比高は知れているが、傾斜もあり直登はしんどいでしょう。
丁度上から攻撃しやすい高さかも知れない。
主郭A南の堀切から主郭を見る。堀切は深い。
ここの東側に藪になった平坦面が見えた。まさかと思い歩くと先程の腰曲輪に出た。さらに南に歩くとE横の腰曲輪に繋がっていた。
鳥取県中世城館分布調査報告書
第1集 因幡編の上ノ山城略測図

竹が皆伐されて茶色の登城道が見えた。道は神社本殿B奥から主郭Aの横を少しずつ登ってゆき、堀切の手前から低くなり、Dの横の部分は一度下がる。これはDとの少ない比高をかせぐための工作だろう。

その後E横の腰曲輪に繋がる。D・Eの東側は藪になっていて、この縄張図作成の時見落としたと思われる。

神社本殿B背後の切岸が急であれば、進入した敵は迂回して登城道を通り、道の敵は主郭から攻撃される。

恩志呂神社は歴史の古い神社で、記録に「天武天皇御宇白鳳四年(六七六)奉幣勅使有り・・・」とあるが、昔からこの地にあったか、今の場所に本殿があったのかは不明。

しかし本殿奥から道があるので、今ある社殿の場所に以前から平地があって城郭の一部であった可能性もある。B・Cの削平地を曲輪と見れば、コンパクトで面白い作りの城となる。

   印刷用に縮小前の大きい縄張図を貼っておきます。
   画像形式 pngファイル サイズ54.6KB

     上ノ山城略測図
登城道を南から見る。主郭Aの切岸は傾斜を保っています。 主郭南東端横に露岩があります。
登城道を往復しFの西まで歩く。

曲輪の上にタヌキの溜め糞があり、下に降りる時、足下の土が妙に軟らかく靴が沈む。足元を見ればムジナ(アナグマ)の穴があった。掘り出した土は固まっておらず靴がめり込んだのでした。手前が私の足跡。
直ぐ横にも別の出入り口が作ってあります。溜め糞はタヌキの物で、ムジナの穴に同居していたのかも。

ここで日没後で暗くなり、写真が撮れなくなりました。ピンぼけ写真です。
この後Fの西下の石垣を見たり、G郭を歩いたりしました。タイムアウトで城の弱点の北西部を見ていません。
4月26日、周りから見た上ノ山城を撮影しました。

南東より。
南南西より見る。
南西より。
西より。

東以外の斜面は、上部が緩やかな分、下部は岸を切ったのか急に見える。
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