鵯尾城  所在地:鳥取県鳥取市玉津
 2006/05/10
  今日は武田高信の居城鵯尾城に登ります。本当は山歩きをしようと考えていたのですが、朝から風が強く午後から雨という天気予報で意気消沈してしまいました。5月2日の那岐山で凄い強風を味わった後なので、勘弁してほしい。ならば近場で運動をということで、昨年登っていない鵯尾城となりました。

鵯尾城に初めて登ったのはそう昔ではありません。記録では1999年10月31日です。その年の初夏に行ったところ、地元の人から「草が深いからやめた方がよい。10月19日に草を刈るので、それ以降に登りなさい。」と言われました。今の整備された鵯尾城からは想像つきませんが、当時は入口からちょっと入ると腰より高い草が茂っており、道も滑りやすい土質をカットした階段でした。以前の地元の方が設置した標識は、下から一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸と書いてあり、本丸が三ノ丸になっていました。

何故、鵯尾城が見たかったかと言えば、色々な本に高信の事が細切れに書かれていて、彼の行動の全体像が見えなかったからです。今でこそ、高信に関する文献を訳されたり解明される方がいらっしゃいますが、当時は町史や歴史の本の行間が読めませんでした。城を見ればその姿も少しは判るのではないかと考えました。

鵯尾城を見て思ったのは、この城は中世の鳥取城と似ているのではないかと言うことです。鳥取城は後に山名豊国・吉川経家・宮部継潤と城主が変わり、更に池田長吉により大改修をされますが、石垣の下に眠る高信時代の土の城(頂上は削られたかも知れません)は鵯尾城と似ていたのではないでしょうか。高信が両方の城にかかわっているので当たり前ですが。

今日登ったついでに、昔の鳥取城を想像させる痕跡をもう少し見てみたい。今まで藪がひどいように見えたので、後ろの出丸に一度も行ったことがありません。まだ春先で藪も知れているだろうと出丸方向に下りました。実際は傾斜も藪も大したことなく、簡単に降りられました。

出丸の大きさは、鳥取城の松の丸より幅は狭いですが長さは長いようです。更に進むとそう大きくない堀切があります。尾根は割と歩きやすいです。次の堀切の先で城の痕跡は終わりです。もう少し進むと林道に出ました。この林道は、砂見の谷の入口直ぐの所から入るのですが、平成16年の秋の台風で一部崩落し、昨年は通れませんでした。この後確認したら通行できるようになっていました。

城に関しては所詮素人ですから詳しく調べる訳ではありませんが、城の後方南西方向の備えが手薄じゃないかと感じました。後方は山深いですし、砂見谷には入口に赤子田の城もありそれ以上必要ないのかも知れません。まだ見てはいませんが、城の東斜面には多くの削平地があり備えは厳重のようです。北西斜面の備えについては全く情報はありません。そのうち歩いてみたいです。

本丸に戻り下山しましたが、ついでに今まで気になっていた、玉津集落との間の小山に登ります。ひょっとして古城の痕跡でもないかと考えたからです。墓地から鵯尾城の駐車場まで尾根を通りましたが、残念ながら頂上を含め人間の加工の痕跡は全くありませんでした。武田氏が玉津に来たのは、そう昔ではないからでしょう。城歩きとはこんな事の積み重ねです。気にしない。鵯尾神社の横の尾根も見たいですが、あそこはウラジロのジャングルで歩いても痕跡が見えないでしょう。

この後運動ついでに、西坂コースで鳥取城に登りました。頂上に着くと小雨が降り出して、雨の中の藪こきは嫌いなので下山することとしました。
A 城入り口
B 鵯尾神社
C 鵯尾神社と本城間の尾根
D 馬場
E 三ノ丸
F 本丸への階段
G 本丸(以前より下草が少ない)
H 出丸の様子(少し藪になっています)
I 最初の堀切(判りにくくてスミマセン)
J 林道から城方向を見る
 
ホームに戻る 歴史トップに戻る