高平(隆平)城・日下部神社 平成20年8月31日 所在地:鳥取県八頭郡八頭町日下部
太平記にその名を残す因幡の武将波多野氏。地頭としてこの地を200年間治めたと言う。その居城高平(隆平)城。
鳥取市から国道29号線を走ると、郡家を過ぎて西御門の下り坂で右側にその山を目にする。山頂やその周囲の削平も見え、麓との比高は200m以上もある大きな山だ。

高平城は案内板も少なく、地元鳥取の人間でも道が判りづらい。これから登る人の参考に、私が知っている道を書きます。

城名の高平と隆平は良く混在して使われます。最後の城主が波多野隆平なので、親しみを込めて隆平の名が使われるのかも知れない。私は城の名前は高平を使い、城主の名前に隆平を使うようにしている。本当のところはどうなのでしょう。
安部恭庵が書いた因幡誌に

「里民口碑に、永禄二年四月波多野民部太輔と云いけるが、近傍北山村の城主丹比孫之丞川狩りに事寄せて、民部太輔を方便出して、日下部村と横田村との間なる小径に人衆を伏せ置き、前後より、鉦鼓鳴らし、鬨の声を作りて切掛けたり。波多野思いもよらぬ事ながら暫しが程は闘いしが、狩出立の小勢なれば、防がんにも力尽き引返さんとすれば伏兵に遮られ、進退谷まり、民部太輔は横田村に駆入り自害して失せぬ。

日下部城には、此由を聞きて早速人数を出しけるが、丹比勢巳に推寄せ、此所にて敵味方入り乱れ死傷数を知らず。
かくて丹比氏は存分に打勝ち、忽ち城に火を掛けて焼拂いけるとぞ。」とある。(八東町誌より)

その時の悲惨な闘いが思い浮かびます。
これより、両城下の間では婚姻を結ばない風があったという。騙されて滅びた日下部の人々の恨みは深かったらしい。
上の地図右側の緑色が下日下部集落。地図には載っていませんが、下日下部の南東に上日下部集落があります。

高平城の大手は下日下部集落の端にある。図のA点です。

道路から見える高平城の標識。
左の看板が樹木で見えないのが残念。

すぐ右横には五輪や宝篋印塔を集めて供養している。
周辺は道路が拡幅されています。

以前の道路跡が道沿いにあり、駐車スペースには困りません。
脇道に入ったA点。右側が墓地となっている。
墓地に高平城の案内板がある。右奥が城山の山頂。

この道を奥の山沿いに進み、少し右側の果樹園の尾根に乗る。

以前は、山頂手前で道が不明瞭になっていましたが、右に横移動して細長い郭の付け根に乗りました。

案内板には「隆平(高平)城跡
長保三年の築城と伝えられ、地頭波多野氏二〇〇年の居城跡である。巽を表とし、山頂に本丸があり、二の丸・三の丸の外土塁、乾堀を構え、出城五を数え因幡郡著名城の一つであった。
永禄二年、丹比氏の謀略に会って落城した。山下には中世の地名が多い。」と書かれている。
もう一つ、私がよく利用した長品から登る道。

八頭町隼郡家から見槻川沿いに長品の集落に入る。

集落を過ぎると、すぐ右に道路が広がった場所があり、ここに駐車。

道路反対の家横の道を進む。谷が2つに分かれ、尾根先端は小さな墓地Iになっている。

墓地の段に登り、段差の少ない左の端(右だったか?)から尾根に登る。道は傾斜も緩やかで割と良い。慣れない内は、帰りに見落とさないようJ地点に目印をつけておきましょう。帰りに回収して下さい。
山中に遺構は沢山眠っていると思われます。しかし、まず安全な道を確保して他の尾根や谷を調査して下さい。出来るなら、東側・西側両方に降りる道を確保していると調査も楽かも知れません。

再度地図を貼り、以前私が歩いたコースの説明をします。
道路脇のKより果樹園の道を利用して登り、横にトラバースして尾根に乗り移った。ここはとても急傾斜で足首が疲れました。尾根に登るとやはり郭Lがあり割と広い郭だった。後から考えてみるとM方向から進入した方が楽だったのかも知れません。

高平城の本丸はEだと言われていますが、そこから西の尾根続きに道があります。以前歩いた時、F地点までは道があり楽に行けました。その先Gまでは尾根が激しい藪になっていて歩けず、尾根横の斜面をトラバースして進みました。しかし斜面も藪で、どちらに進んでいるのか場所も判らず、コンパスで方向を判定して這々の体で脱出しました。何をしたのかよく判りませんでした。

Nの尾根を下ってみたことがあります。尾根を下るのは何ともないのですが、最後の谷に降りる所が急傾斜で難儀しました。東の谷は注意が必要です。補助ロープを持って行った方が良いでしょう。
下日下部の集落奥にある日下部神社に行きました。

目的は境内にある五輪塔。
日下部神社。
拝殿の左に由緒書きが貼られている。

墨が霞んで、肉眼でも字の読みづらい部分があり、内容を書き写します。由緒書きは画像をクリックすると別画面で拡大されます。
  村社 日下部神社
祭神
 息長帯姫命
 品田和気命
 日下皇子
 大臣命
例祭 四月十五日

 創立年月・原由等詳ではないが、中世波
多野氏の守護神として、本村より五町ばか
り東南方字八幡代に鎮座、八幡大明神と言
った。永禄二年(1559)四月四日、北
山城主丹比氏の変に遭い、波多野氏滅亡し
てのち社地が田圃になったので、時の神主
大渕某が今の地に移して社殿を再建したと
いわれている。
 明治元年七月神社取調べの当時日下部神社
となり、同六年日下部神社と改称した。
目的の五輪は本殿右にありました。

この五輪塔は、城主波多野隆平の一族布施(久世)某の墓だと言われています。急を聞いて駆けつけたが、隆平の死を知り切腹して果てたという。

以前は山中にあったものを神社に移したのだそうです。
太平記の神南の戦いに、波多野氏と並んで久世の名が見えます。久世某のご先祖だったのでしょうか。五輪は言い伝え通り4尺程ありました。

因幡誌には、山中に波多野隆平の墓と伝わる大きな五輪塔があると書いてあります。残念ながら、高さ7尺のその五輪は現在どこにあるか不明です。


日下部神社の境内は砦として使える創りに見えます。
拝殿の左には、高平城への道があるようです。聞くと尾根にテレビの共聴アンテナがあるとのこと。

手作りの案内板に、日下部の人々の城への愛着が感じられます。


ついでの話。
下日下部には日下部神社があります。まだ行っていないのですが、上日下部には上日下部神社があるそうです。祭神は天穂日命だとか。
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