鷹山城東尾根2

平成21年6月14日 所在地:鳥取県八頭郡八頭町北山
堀を上った地点は削平地になっていて、尾根筋と竪堀を登る敵の両方を待ち受ける構造になっています。

写真はその上側の切岸。

登れない程の傾斜ではありません。段差は低そうに見えますが、実際は割と高いです。
その上には高さ70cm長さ5m程の土塁が築かれています。昔は高さ1m位はあったでしょう。

城側の兵士はここで攻め手の敵を攻撃します。
その上側。藪で良くわからないと思いますが、削平地が段々になっています。
下の図Tです。

一番長い曲輪は長さ10m。最大幅は約9m。
各段は完全削平されており、それぞれの段差は1mから1.5mで明確に切られています。
南側斜面はとても急で、私では登れそうにありません。北側斜面は若干緩やかなため、竪堀で敵兵の動きを制限しようとしている。

私は見落としましたが、北側斜面には青い点線で書いた竪堀があったらしい。敵兵の回り込みを防ぐためだ。

一番左の削平地Rは長さ16m程ありました。幅はもっと広いのですが、使用したソフトで楕円が上手く描けませんでした。
この曲輪群の構造を理解して頂こうと、上の図Q地点から左右を撮影した写真をパノラマ風に合成してみました。
※写真をクリックすると別ウインドウで拡大写真が表示されます。

左端が尾根横の削平地Rで、その右上の段Sとは写真よりもっと比高があります。竪堀の中にいれば、中央の曲輪Sと右上の曲輪群Tから攻撃されます。

本当に小さな曲輪群ですが、目の前にすると迫力があります。この曲輪群は、鷹山城東尾根最大の防御構造です。
曲輪群の上の尾根U
尾根を少し登ると岸が切ってあります。比高は高くないのですが滑って登れません。木がもう少し生えているとそれを足がかりに登るのですが。G地点。
写真右上が岸下の堀切。堀切自体は浅い。手前に尾根と平行の低い土塁がある。

土塁手前の窪みは、逆U字形の小さな竪堀になっており、さらに横には5m間隔で2本の竪堀が掘ってあります。

深さは1m程で大規模ではありませんが、敵兵の動きを制限するものです。この辺りの構造は複雑です。

ここが登れないので、私は横の竪堀を通って登りました。割と急なので、木を掴んで這い上ります。
コース地図を再掲します。
登った先は本丸下の腰曲輪です。長さ30m幅4m程あります。

この曲輪の下も急斜面で、下の竪堀の敵兵はここから攻撃されます。

この南には比高4m程で4X10mの攻撃郭があり、腰曲輪は本丸と両方から攻撃されます。
腰曲輪から見た本丸の切岸。比高6mはあるでしょう。今でもこの腰曲輪上の切岸は急で登ろうとは思いません。
造った当時の切岸は、赤線で示したようにさらに急だったでしょう。

城主丹比氏(たじひ)が鷹山城を放棄したのは、秀吉の第一次鳥取城攻めの天正8年(1580年)と言われています。429年という歳月で、風雨や降雪により浸食され、青線で描いたように土砂が移動したと考えられます。

緑線はお城を造る前の地形を想像。
切岸が登れないので腰曲輪を北に移動します。

本丸と三ノ丸の間の堀切の北側には、鷹山城最大の竪堀が口を開いています。図のH地点。

地方の地侍がこの大きな竪堀を掘ったのでしょうか。
鳥取城も昔は土の城でした。鷹山城の高い切岸を見ると、中世の鳥取城の姿が目に浮かんできます。
集落の人から、「頂上にはお城で使った割石が多数ある」と聞いたので調べてみました。くまなく探したが石の量はそう多くない。

割石もありましたが、川原石も少し混じっています。建物の礎石となる大きな石はありませんでした。写真の石は横の細見川に転がっていそうな石です。
この後山頂から南東の尾根に降り、尾根の曲輪を見たりKにある2段の腰曲輪を調べました。麓へは先日降りた青線の道ではなく、一度も歩いていない東の尾根で降りてみました。

Lには逆V字形に尾根を切る堀切があります。しばらく下ると、左写真の少し傾斜した8X9mの見張り曲輪Mがあり、その先で徐々に傾斜が急になります。

N地点で、足元に道路が見えているのに急傾斜で降りられなくなりました。危険なので引き返し、先程見た獣道で谷Oに降りました。

OからPの間には昔の道跡がありましたが、浸食で道幅が狭く30cmありません。一度踏み外して転けました。
次は鷹山城について少し考えてみます。
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