竹田城を訪ねて 2003.3.22

兵庫県但馬の竹田城に行って来ました
城で会った地元の人にどこから来たのか問われ
「鳥取からきました」と返事をすると
「鳥取の人は嫌いです」と言われました
日頃の行いが悪いからでしょう!!


いえ本当は竹田城の最後の城主である赤松広英は
関ヶ原の戦いの直後に亀井慈矩と協力して
当時豊臣勢の宮部氏と鳥取城明け渡しの戦をおこし
鳥取の城下町を炎上させた責任を問われ
徳川家康の命で鳥取の真教寺本堂で切腹したのです
時は西暦1600年10月28日だったそうです


城主を失った竹田城は廃城となりました
この赤松広英は善政を行った城主として地元の人に慕われていたので
城下の人たちの恨みが鳥取の人間に400年過ぎても残っているのです


亀井慈矩が自分の責任を擦り付けたとか言われていますが
そうでなくとも室町幕府以来の名家の赤松氏(惣領家は少し前に滅びてます)を
家康が何かの口実で滅ぼそうとしたのかもしれません


何にしても鳥取の人間は歴史に興味が有る人でも
赤松広英なんて名前を知っている人は本当に希です
亀井氏にしても尼子の家臣ですし何だか訳がわからないけれど
よそから来た人が鳥取で暴れて鳥取の人間が恨まれるのか?


本題ですが竹田城は中世城郭として破却もなく
廃城になった経緯も関係してその後の改変もなく
石垣の保存状態が大変良いので有名なお城です


城でお会いした地元住民とお話して感じたのは
保存状態が良いのは行政の力だけでなく
住民の城を誇りに思う意識が
非常に強いからだと感じました


城郭周りはかなりの急斜面で
石垣がなくても攻めるのは大変そうです


地形の制約で二の丸がほとんど無く
本丸もそう大きくないし
籠城の時は兵員は南千畳か北千畳に住むのでしょうか
そうするとあまり多くの人間が入れないな?
それと水の確保も大変だったでしょう


割と小振りなお城でした
そりゃ仕方ないと思います
だって私は高校が鳥取城の中にあったのでして
感じる大きさが違うかも知れません


まあ鳥取城の山下の城は戦国時代終了後の行政の城であり
竹田城は戦国時代末期の戦のための城です
自分の持つ勢力で防衛できる規模の城は大きすぎてもいけません


おわり

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