秀長の陣所周辺1 平成19年7月22日 所在地:鳥取市円護寺
今年の梅雨は最初空梅雨気味だったが、いざ降り出すと雨ばかりで止まらない。やっと梅雨の終わりが見えてきた。
久方ぶりのお城の散策にと、吉川経家の墓所に駐車して5号歩道を歩く。梅雨の湿度でキノコが遊歩道の脇に顔を覗かせる。

タマゴタケ。綺麗なキノコです。これはテングタケの仲間だ。テングタケは猛毒だが、タマゴタケは食べられます。私はキノコの知識はありません。食べられる物も若干知っていますが、度胸がありません。
名前も知らないキノコ。美味しそう。でも猛毒かも?
よく見かけるシロオニタケ。右は開く前、左は開いた物。何となく毒々しい。もちろん毒キノコ。

このキノコは、色が白いので撮影すると真っ白く飛びやすい。マイナス補正をした方が上手く撮影できる。
鳥取市には立川町在住の城郭研究家吉田浅雄氏がおられます。次の図は吉田氏が天正9年(1581年)羽柴秀吉が鳥取城を攻めた鳥取城の包囲網を描いた、「天正鳥取陣営跡之図」収録の「秀吉本陣及付近遺構要図」を簡略化したものです。各陣所の番号は天正鳥取陣営跡之図に記載のものです。
遊歩道を歩き、前回の尾根手前のC尾根を登る。この尾根は遊歩道下にも遺構があり、その上に小郭でもあるかと思っていたが、痩せ尾根に細長い大きな遺構があった。

下の方は幅4〜5m位と狭いが、大平に近づくとそこそこ幅があります。しかし今日は薄暗いうえ藪なので写真は撮影しませんでした。

前回と今回に見つけた郭は、位置関係や形状がまだ明確でない点にご留意ください。

8月20日にメジャーを持ってD尾根上の前回の遺構を測りに行きました。
見通しのきかない藪の中で、複数回測った距離を足すと長さ70mですが、くの字に曲がった値を補正して65mとしておきます。先端部の幅は10m弱ですが大平に近い基部は幅30mありました。
秀長の陣所の大平(おおなる)の長さは75m幅20m。前回の遺構は秀長陣所に近い面積があるようです。

今回の遺構は未測定ですが前回の遺構より長いように感じました。遺構は水平ではなく区画を切った段があり、また調査したいと思います。また前回の図でB尾根とC尾根がY字形に合わさったように作図しましたが、実際に歩くとドームのような地形で明確な尾根の接合はありません。

素人の私が遺構の目的を推測する。今の5号歩道の場所に昔の道があったとしたらその通行の監視。ヨシ原谷から進入した敵兵を迎え撃ち37 秀長陣所の大平(おおなる)を守ること。
上図は「天正鳥取陣営跡之図」の一部です。緑色の部分が秀長が守っていた範囲で、ピンクの部分が砦。右下の太閤ヶ平周辺は秀吉の近習が守り、左下は吉川経家の籠もる鳥取城側。

秀長は秀吉の副将と言われ、秀吉配下の中でも多くの将兵を従えていたはずです.。それでこそ、鳥取城包囲網で久松山に打ち込まれた楔として、最前線を任されていたのでしょう。それなのに守備範囲に37 羽柴美濃守秀長陣所以外に面積の大きな郭がないのを不思議に思っていた。

42 五反田平の陣所は円護寺及びヨシ原谷の防御、40 次北尾根嵩みの陣所はヨシ原谷を防御すると思う。しかし肝心のヨシ原谷の奥に防御の郭がなく、37 羽柴美濃守秀長陣所は裸の状態である。今度見つけた郭で謎が解けた。面積の広い駐屯地が中心にあれば、各方面の応援も可能だ。

小さな郭に居住の造作をすれば戦闘能力が落ちる。居住は駐屯地の大きな郭でする。参考までに「秀吉本陣及付近遺構要図」を見ていただくと太閤ヶ平の周辺は面積の大きな郭とその下の小さな郭に分類される。これは大きな郭に各武将が配置され、その管理下の小郭を守備していたと思われる。

駐屯地は柵で囲まれ、多数の掘っ立て小屋と規模の大きな炊飯施設があり、食糧弾薬の備蓄保管場所でもあります。駐屯する兵士は、昼夜の別なく交替で郭周辺や他の場所の見張りをする。もちろん、火薬の調合や弾の鋳造もします。長期戦となれば大きな面積の郭が必要です。

偉そうな事を言っていますが、実は遺構を見つけたことを吉田浅雄氏に電話で報告し、その話の中で聞いた内容です。「3ヶ月となれば簡単な小屋掛けでは過ごせず、掘っ立て小屋を建てなければならない。また二〜三百人の食事なら大きな火床が必要となる。太閤ヶ平の土塁の中を発掘すれば、必ず大きな掘っ立て柱の柱穴が見つかるはずだ。」と言っておられた。やはり城郭研究家の吉田氏は、城を歩いてニタニタしているだけの私とは違います。

推論ですが、今まで江戸期の土取場跡と思われていた38 からづつみ西平坦地の堤横の郭も、ひょっとして水道谷遮断の駐屯地だったのかも知れません。他にも37の真北、ママコ池横の尾根も郭がある可能性が出てきました。目的は椿谷の遮断と37 秀長陣所の防御です。所詮素人の考えですが。

疑問も湧いてきました。秀長軍の水場は何処だったのでしょう。
C尾根をさらに登る。

炭焼きの窪みに樹木が刈り込んで積み上げられていた。

人間の仕業ではない。
ピンボケ写真で申し訳ないですが、樹木の切り口を見ると歯で折ったようだ。歯で木の皮のむけた部分もある。左端は折りかけて止めたのだろう。

後で山をよく歩く知人2人に聞いてみたが、詳しく知らないようだった。調べてみるとイノシシが寝床を作ったようだ。

直径1cm以上の枝を折るなんて良い歯をしています。
これはD尾根の前回の遺構にあった矢竹を刈って積み上げた物です。どうもこれも犯人はイノシシのようです。

しかし、枝や矢竹なんて痛くて寝心地が悪いでしょうね。
大平に近づくと下草がウラジロになってきました。先程述べましたが、大平近くの尾根はこのようにだらっとした地形で、B尾根とC尾根は明確に接続はしていない。この辺は吉田浅雄氏が参考にした元地図と実際の違いだ。
羽柴秀長陣所に着いた。陣所内を歩いていると、今まで気付かなかった50cm位の段差の土塁が確認できた。
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