中水道北尾の陣所 平成19年10月5日 所在地:鳥取市東町・円護寺
吉田浅雄氏にお会いした時、氏の縄張り図を略図化して使用させて頂いていますとお伝えした。すると縄張り図を使っても良い、著作権を主張する気はないと言っておられました。氏の著作権を侵害しないようにと考えても、私に人に理解しやすい図を書く能力はなく、縄張り図がなければ説明も何も出来ず話が進まない。

そういう訳で、吉田氏の図を解説に必要な部分のみ使用させて頂こうと思っています。
今日は雲が少しありますが、爽やかな秋晴れとなりました。

昔は山の蔭にある陰気な所だった吉川経家公の墓所は、妙に明るい場所となりました。これで良いのだろうかと考えてしまう・・・・。
円護寺から5号歩道で久松山・太閤ヶ平分岐まで歩き、ひょうたん池(奥水道)に行きます。

下の図で池の堤横をA地点に向かいます。遊歩道から一段登ると道に隣接して別の道が平行にありました。これは何なのでしょうか?

実は久松山周辺の遊歩道には、道横に別の道がある場所が何ヵ所かあります。それは今の道より古い道のようですが、ここはまたそれとは違うようです。営林署の作った作業道なのか。

A地点は檜の植林地で、平らな所もあるが削平地とは判断できない。ひょうたん池の堤造成に土取をした可能性もあり、中世の地形がどうだったか判らないかも知れません。
下の図は吉田浅雄氏の「天正鳥取陣営跡之図」の部分を拡大したものです。

予定ではG地点を調べるつもりが、H尾根を見ながら歩いているうちに忘れてしまいました。情けない。さらに進んでIからCDの尾根筋を調べたいと思います。吉田氏のこの図を眺めながら、この尾根に郭がないのはおかしい、背後から夜襲をかけたら簡単に落ちると考えたからです。

実際I地点に行くとちょっと気が変わりました。道を先に進んで谷と出合う地点まで歩き、直ぐバックしてB地点で尾根に取り付きます。尾根筋を正確に同定しておきたいからです。標高差は僅か60m弱で、傾斜も知れてます。登り始めの下部は少し藪でした。郭はありません。上に登るにつれ藪が薄くなっていきました。

C地点は細長い尾根で、幅は狭いものの長さはちょっとあります。丁寧な加工はありませんが、自然尾根ではありません。郭はほぼ水平で、北側の尾根に合わさる地点が少し低くなっていました。目的のものを見つけました、明らかに水道谷の守備砦です。

D地点は、地図で見るより幅があり傾斜も緩やかです。掘っ立て小屋も建てられそうです。兵士が生活した場所だったのでしょうか。41番中水道北尾の陣所の中心となる方形土塁を見て歩き、次に寺屋敷北東の郭Fに向かいます。

Eの道は私の大好きな窪んだ堀切道です。久松山から視界を遮るのが目的か、道は尾根の東側に作られていました。Fから何処まで降りられるか進んでみましたが、西側が崖っぽくなっていました。木の根のむき出しの地肌には落ち葉も積もっていません。傾斜もきつく暗くなってきたので引き返しました。この崖は中水道の土取場だったのでしょうか。
41番からの帰り、遊歩道39の直ぐ先で下の南東の尾根にイノシシがいました。歩いているとガサガサ「ファー」、ガサガサガサ「ファー」と逃げていきます。一匹のようです。ネコが威嚇する時の鳴き声と同じですが、こちらは前歯に物が挟まった様な声を出します。当然声はネコより大きいです。

こちらも負けずと「ガァオー」と大口を開けて怒鳴ります。こういう時は大口を開けた方が勝ちで、決して遠慮してはいけません。負けてしまいます。さらに進むと図の終わりの地点でもう一匹いました。こちらは温和しく逃げていきます。まあ、イノシシぐらいしかまともに相手をして貰えないのも情けないですが。

今日の目的の遺構を発見し、次の作戦を考えます。H尾根にも郭がある可能性がでてきました。その郭とGの遺構の連携を考えます。それから今日歩かなかったI地点にも遺構はないか。41番の北西の尾根には何もないのだろうか?いくらでも疑問は湧きます。
本日B地点の遊歩道下とC尾根北端、それともう一箇所(何処かは忘れた)で見かけた物。(写真はB地点下)

以前「秀長の陣所周辺」のD尾根と遊歩道の間で見たが、1日に3箇所も見ると疑問が湧いてきた。

長さ3m程溝が切ってあり、一方は口が開いていて、反対は閉じている。これも炭焼きの一種なのか、誰か教えて下さい。
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