太鼓ヶ平 平成19年10月31日 所在地:鳥取市東町
私のHPのリンクを張って頂いている幸田屋様のサイトに鳥取城の太鼓ヶ平が載っていました。久松山の正面に斜めに走る尾根で、何時か行きたいと思いながら今まで歩いたことがありません。
鳥取城二ノ丸の上は急斜面で、下手に行こうとしても崖が進路を阻みます。吉田氏の縄張り図を頂いて位置関係が明確になった今なら歩けそうだと行ってみました。

注意 : この郭は道が不明瞭となっており、急斜面や周辺には岩場も有るようです。ある程度山歩きに馴れた人でないと、エスケープルートも無く遭難騒ぎになる恐れがあります。単独では立ち入らないで下さい。もし道が判らなくなったら、引き返す勇気も必要です。
右膳ノ丸に上がる石段。この上は中世の宮部氏の居館があったようだ。
久しぶりに二ノ丸を歩く。
二ノ丸から中坂道の登り口に行く手前に、久松山の地岩の上に築いた石垣がある。

この石垣は小さな石で築かれた中世の石垣らしい。池田時代の鳥取城の造成に関係ない場所だったので破壊を免れたのだろう。

もちろん、今残っている見事な江戸期の石垣の下にもこのような石垣が埋もれているのだろう。
適当に斜面を登って行くと削平地が現れた。吉田浅雄氏の縄張り図を見ながらどれに相当するのか考える。良く判らない。
郭と郭を繋ぐ道に注意しながら歩く。腰曲輪は長さはあっても幅は狭い。
歩くうちに太鼓ヶ平に着いてしまった。どうも2段ほど腰曲輪を見落としてしまったようだ。

太鼓ヶ平は上下2段になっている。左は下の段。結構広い。
下の段より上の段を見る。

今日は4時過ぎからの山登りであっという間もなく日が暮れていく。
上の段に生えている大きな木。
上の段には地岩が剥き出しになっていた。削平したら出てきたのだろう。

これ位の岩は取ろうと思えば取り去れる。そこまでの加工をしたくなかったのか、または何かに利用したのか。
左は、鳥取市の城郭研究家吉田浅雄氏の「戦国城砦 久松山鳥取城跡之図」(3枚組)の部分を拡大した物です。

道の痕跡を書く。赤色が道の痕跡。太鼓ヶ平より下は良く判らないうちに通り過ぎてしまいました。

青色は吉田氏の縄張り図に未記入の部分。道があるので繋がりを示すために記入します。
上の図の太鼓ヶ平左の腰曲輪に降りてみる。郭を繋ぐ道がある。
上を目指して太鼓ヶ平右奥の道を進む。道は途中崩れていたが、その先に進むとまた道がある。

剥き出しの岩もあるが、道なりに歩くと次の郭の腰曲輪に出る。
太鼓ヶ平の上の郭。

西坂道には「松ノ丸」の他は「笛ヶ平」「鐘ヶ平」「太鼓ヶ平」と楽器の名前が使われている。この郭はさしずめ「法螺ヶ平」、いや太鼓の上で小さいので「小鼓ヶ平」とでも呼びますか。
郭の上側は地岩が剥き出しになっていた。
小鼓ヶ平?から鐘ヶ平に進む。写真は道を間違えた部分。

郭の右奥に道の跡がある。右の木の間を進むと明確な踏み跡があり、ついそのまま進んでしまう。実は一段登った直後に左の岩の上に進むのが正規の道。

最初騙されて涸れ沢に進み、道が消えたので斜面を直登した。すると左に道の痕跡が見えトラバースした。その道を下って郭に戻り、黄色の道を見落としたことに気が付いた。
涸れ沢への道を進むとこの場所に着く。この先は道が無い。ここは涸れ沢を見張るための場所だろうか。
太鼓ヶ平の上の郭から鐘ヶ平への道を記入します。正確な図ではなく、歩いて道の曲折を適当に記入した物です。参考程度にしかなりません。緑色は涸れ沢への道。

どう考えても獣道ではなく中世の道跡と判断すべきだろう。道は長い年月の風雨で浸食され、消えかけていてとても判りにくい。

鐘ヶ平の直下、あと数メートルで道を見失い、最後は直登した。日没後で薄明かりも無くなり離れた道の跡が見つからない。

私は道を上方向に探したが、もしかすると道は鐘ヶ平の下で左の西坂道に繋がっていたのかも知れない。また後日調べるつもりです。
真っ暗になってから鐘ヶ平に着きました。この後西坂を山上ノ丸天守まで歩き中坂道を下りました。

太鼓ヶ平は南方向の見晴らしもあり、中世の匂いがする遺構でした。
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