山守之砦 平成19年4月17日 所在地:鳥取市覚寺・円護寺
午後遅くちょっと外出して、八幡山の遺構を見ることにした。
円護寺に行く道沿いに中ノ郷小学校グランドがある。道の反対側に駐車して、山側の階段を登ります。

登る途中に穴がありました。この辺は円護寺石の産地で、採石の試掘穴でしょうか。
階段の先の道。
このアンテナの保守道のようです。
アンテナの横は少し高くなっています。土塁などの遺構があるのは判るが、笹藪がひどいので全体像が判らない。ここは「山守之砦」の「其東之要害」と呼ばれる砦跡です。

藪の中で作図すれば姿が判るのでしょうが、面白くないので短時間でパス。
帰りにアンテナ施設から下る道も砦内だと気付き、道が曲がるところを突っ切って進むと遺構があった。郭端の段差。
正面から見る。ここに柵を設けていたのか。
そのまま進むと尾根は切断され崖になっていた。円護寺石の採石場。

これ以上採石すると、遺構が削られます。
アンテナの横の藪が払ってあり、中に突っ込むと尾根を西に進む道になる。普通の人は用事のないところなので、これはお城歩きの人の仕業でしょう。「山守之砦」に進む道のようです。
尾根を進むと大きなクレーターの様な穴があります。擂り鉢状の窪みのせいで細尾根になっている。

城遺構に似てないでもないが、円護寺石を採石した跡でしょう。
その先に大きな平地があります。削平は完全ではないが面積は広い。「山守之砦」の最下部で、兵士の駐屯地でしょう。

この後がこの砦の面白いところです。小さな削平地が階段状に連続していて、段数を数えると10段程ある。お城の素人が言うのもおかしいが、こんな小削平地を数作るより、何段かまとめてもっと大きな曲輪を作った方が良いのでは思う。
実際縄張りをした人は、時間・土木工事の量・その他の要素を考えて作ったのであり、決していい加減に作成したのではないでしょう。
その先に進むと土塁が現れた。高さは1.5m近く、法面の傾斜角度もあり、曲輪の周囲を四角く囲んでいます。虎口もはっきり残っており、これが426年前の遺構だとは信じられない保存状態です。
次の郭との境の土塁。右は虎口。
秀吉が来る以前の鳥取の城の土塁は、曲輪の端を少し高くして、他の曲輪との段差を大きくしたり、周囲から少し保護する程度のものです。決して高くありません。

秀吉軍の土塁は火縄銃の弾を意識してか、曲輪を高い土塁で完全に囲み、周辺からの狙撃や流れ弾から曲輪内部を完全に保護します。

両者は同じ土塁と言っても全く性質が違い、高い土塁は丁寧に版築(はんちく)を行わなくてはならず、土木工事の量もまるで違うでしょう。
土塁が左から奥に進み右に曲がっているのが判るでしょうか。

高かった土塁も雨で流され、土塁の上の樹木が大木に成長し、そして朽ちて倒れる。根が倒れると穴が開き、幹が折れても枯れた根の空洞がへこむ。

426年の間に色々なことがあって、遺構は徐々に変形されます。それを止める手段はありません。
土塁で囲まれた郭は3郭あります。内部には一段高い壇もあります。

秀吉本陣の太閤ヶ平は、とても高い土塁に囲まれ規模も大きいです。山守之砦は小さいが保存状態も良く、太閤ヶ平に次ぐ見事な土塁を持つ遺構です。
最西端の郭の土塁。この土塁には大きな穴があります。

どうも加工が楽なので、厚さのある土塁を掘って小規模の炭焼きをしたようです。
吉田浅雄氏の「羽柴秀吉の天正鳥取陣営跡之図」の縄張り図を簡略化した、山守之砦略図。
尾根の最北西端。先端は切り取られていて、ここに遺構が有ったかどうかは判りません。下を監視する郭があったのか、それが一番知りたかったのですが。

ここに来る手前に、道路側に開口した巨大なクレーター状の採石跡があります。おかげで尾根は細くなっていて、高所恐怖症の人は歩けないかも知れません。
下に降りてみました。左の植林地が擂り鉢状のクレーターです。

この尾根先端から火縄銃や矢を装備し下を監視したのか。破壊された尾根は丸山城に対峙する部分で、重要な遺構だったのかも知れません。
今日歩いたコース。

 P 道路脇駐車スペース
 A 其東之要害
 B 其東之要害南東端
 C 中クレーター
 D 山守之砦
 E 大クレーター
 F 尾根先端
 G 丸山城
 H 雁金山
 I サイノ乢附城
 J 道祖神ノ峠
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