吉田浅雄氏の縄張り図 平成19年10月4日
先日、鳥取市立川町在住の城郭研究家吉田浅雄氏のお宅にお邪魔しました。その際、以前から気になっていた羽柴秀長の陣所の微妙な角度のずれをお話しした。吉田氏はどちらにずれているか尋ねられた。縄張り図の元図を出してこられ、見れば今までの縄張り図と違っていた。
縄張り図とは、実際に郭に立ち形状と大体の位置関係を本人の主観で作図する物で、決して精密図ではない。遺構自体が、何百年の間に崩れたり埋もれたりしている。それを考え、元の状態を想像して作図をするのである。本人の主観や城郭の知識も大きく影響する。

吉田氏の元図は鳥取市の小縮尺の地図をコピーし、遺構のある場所に白い紙を貼り、その白い部分に作成した縄張り図を縮小して書き込む。それをコピーして遺構毎に別のファイルとして保存しておられた。大変な手間をかけて作られた物だった。

元図を拝見すると、尾根の先端の小郭が南の尾根に繋がっていた。この図を手書きで縮小し「秀吉鳥取城攻略の本陣及び付近遺構要図」を書かれた。その時、若干書き間違いがあったようだ。

また縄張り図は、ポールを立てコンパスで精密に角度を測って作図したのではありません。ある意味、勘で作図しており「郭の角度も正確な訳ではない。」と言っておられた。
吉田浅雄氏は、久松山を1日2尾根歩いて遺構を測量し、家に帰るとそれを丁寧に作図した。それで矛盾や疑問が湧けば、後日また測量に尾根を登ったのだそうだ。測量は楠はかり店で購入した30mの測量テープを使用し、一方に杭を付けてそれを地面に打ちこみ引っ張って測ったのだそうだ。次の郭に移動する時は、強く引っ張り杭を抜いた。

先日、私も真似をしてメジャーの端にステンレス杭をつけてやってみた。残念ながら、強く引っ張っても抜けなかったり、測ろうとしてすっぽ抜けたりした。杭の打ち方を調節してやっと上手くいったと思ったら、抜けた杭が途中の藪に引っかり、結局は往復する羽目になった。上手く測れるようになるには練習が必要なようです。

氏は、岡嶋正義の旧塁鑿覧(正式には 舊壘鑿覽 キュウルイ ソウラン)を参考にして鳥取城包囲網の遺構を歩き、久松山のように全尾根を歩いたわけではありません。包囲網の全尾根を歩けば、範囲が広いので大変な労力を必要としたでしょう。その様な訳で包囲網の未踏査の尾根に、未発見の遺構があっても不思議ではありません。

吉田氏に、これから歩こうと考えている尾根についてお伺いした。氏が歩いて何もない尾根を歩くのは2度手間になるからです。尾根毎に「そこは歩いたそこはまだ行っていない。」と明確にお答えいただいた。

お教えいただいた話ですが、江戸時代のお城山周辺は軍事機密なので、円護寺や太閤ヶ平を含む広範囲が山奉行の管理下におかれ一般の人の立ち入りが厳しく禁止されていたそうです。太閤ヶ平は、秀吉が久松山に対峙するために布陣したこともあり、特に近づくこと調べることを固く禁じたようです。

破れば首が飛び、太閤ヶ平の大休や三枚札には監視の小屋が建ち、円護寺には各登り口に奉行配下が張り付いていたようです。ただ特例として余りにも遠回りになる百谷の人に栗谷の通行を認めたり、他にも田にすき込む草刈りを認めた集落があったそうです。

久松山周辺には沢山の炭焼き跡がありますが、その様な久松山山系で江戸時代に炭焼きを行うことは困難で、戦後の混乱期に行われた物がほとんどではないでしょうか。

岡嶋正義が調査のため自由に行動できたかは良く判りません。それに林は、伐採→藪化→樹木の成長→極相化というサイクルをとり、どの段階で調査するかにより違う答えが出るかも知れません。鳥府志の太閤ヶ平の図が良い例ではないでしょうか。実際、鳥府志の図と自分で歩いた土塁はまるで形が違います。当時は矢竹が密生していたのでしょうか。

吉田浅雄氏はお城がとても好きな人ですが、「お城が好きな変わった人間は滅多におらん。」と言っておられました。私は縄張り図も満足に書けない、ただの藪歩きの専門家でしかありません。
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