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おさごの墓2

平成24年11月30日 所在地:鳥取県鳥取市東町
疑問を解決するには元を調べるしかない。と言うことで、鳥取県立図書館に岡嶋正義の
鳥府志を読みに行きます。

図書館には、閲覧用に鳥府志の複写本が置いてあり、それをコピーして頂きました。
これだけでは心許ないので、鳥取県史6の鳥府志もコピーします。

学生時代勉強嫌いで、古文苦手の私が訳すのは変ですが、訳が適当なのはお見逃しを。

面倒なので、適当に飛ばして読んでね。
鳥府志

△オサゴノ墓
天球丸より中坂口を少し上がりたる山径の右に在り。近年この禿倉(ほこら)を喬松院殿寄進せらる。

「民談記」に彼おさごと云るは、池田備中守殿の息、次兵衛殿、作州の森美作守殿の方より室家を迎被けるに附き参らせて来たりし上掾iじょうろう)なり。

其此、年は三十余歳に相見え申けるが、容色艶美にして、智恵才覚常ならず。追々主君の心に叶ひ、後には内外の執達まで此人よりせしとかや。

當城普請の時も、髪を大吹綰(おおふきわげ)に結ひ上げ、紅粉を粧ひ、美々しき小袖を着て、花色鈍子(どんす)の立付をはき、金鍔のかかりたる長脇差を横たえ、竹杖をつき、毎日見分に出。彼此と指図を成しければ、普請に出ける人夫等これに心を奪われ、其日の苦労の気を転じけると也。

次第に主君の寵遇いやましに相成。その後次兵衛殿の室家卒去せられけるに、於さごの給仕宜しからぬ風聞ありて、森家へ呼びかえされ失れけると云へり。

余案、若し斯ありしものならば、此所に墳所の有可事とは思われず。但し仮墓なるにや。不審し。

「上雪」に、天徳寺にて遍参の僧の咄しに、今も備中国鳴岩の城内に、左近大明神と号して一社の神に祭りてありと云えり。其子細は知らざれども、定て没後に何とぞ備中殿に祟りなど有りて、神に祝いたまひけるにや。是凡人にては無りし成べしと云々。

又案、備中国鳴岩とあるは、覚束無。恐くは松山ならん。又、次兵衛殿の年齢に就て推す時は、おさごの事蹟疑べき事あれども姑これを舎く。
私の適当訳

△おさごの墓
天球丸より中坂口を少し上がった山道の右にある。近年この祠を喬松院殿が寄進された。

「民談記」(稲葉民談記)にこのおさごと云うのは、池田備中守殿(池田長吉)の息子、次兵衛殿(池田長幸)が作州の森美作守殿(森忠政)から奥方を迎えて付き添ってきた上掾iじょうろう:身分の高い侍女)だ。

だいたい、年は三十余歳にみえるが、容姿美しく、智恵才覚は普通ではなかった。徐々に主君の気に添い、後には内外の伝達までこの人を通して行った。

当城普請の時も、髪を大吹綰(おおふきわげ)に結い上げて、紅粉をつけて、美しい小袖を着て、花色緞子(どんす)の立付袴をはいて、金色の鍔(つば)のついた長脇差を差して、竹杖をついて、毎日見分に出た。あれこれと指図をすれば、普請に出ていた人夫らはこれに心を奪われ、その日の苦労を忘れてしまった。

次第に主君が目をかけ特別に扱う事が多くなった。その後次兵衛殿(長幸)の奥方が亡くなったのだが、於さごの仕え方が良くないうわさがあって、森家に呼び返されいなくなったと言うことだ。

私が考えるに、もしこれが本当なら、この所に墓があるはずはない。ただし仮の墓なのだろうか。おかしな事だ。

「上雪」に、天徳寺に修行に来ている僧の話で、今も備中国鳴岩の城内に、左近大明神という名の一社の神に祭ってあるということだ。その子細は知らないが、きっと没後に何か備中殿に祟りか何かあって、神に奉ったのだろうか。これは普通の人では無かったからだろうと伝える。

また考えるに、備中国鳴岩というのは、あやふやだ。おそらく松山だろう。また、次兵衛殿の年齢で考えると、おさごの事蹟は疑うべき事があるが、とりあえずこのままにしておく。
鳥府志

△オサゴノ手水鉢
此櫓台西の角石に、丸く彫窪めたる穴あり。さながら手水鉢を築こみたるが如し。此石垣普請の時、毎々崩れけるに、於さごの手水鉢を築こみければ、早速に成就せしとの俗説なり。全く此婦の名よに名高きゆへ、好事の附会の説なる可し。
私の適当訳

△おさごの手水鉢
この櫓台西の角石に、丸く彫り窪めた穴がある。さながら手水鉢を築き込んだようだ。この石垣普請の時に、毎回崩れたのだが、於さごの手水鉢を築き込むと、すぐに出来上がったとの俗説だ。全くこの女性の名が世に名高いので、物好きな人のこじつけた話だろう。
池田家の系図。
一部省略しています。

池田長吉は関ヶ原の戦いで東軍に付き、長束正家の近江水口岡山城を調略によって落し、それらの軍功で鳥取6万石の領主になった。

長吉の没後、家督は子の池田長幸が継いだが、元和3年(1617年)に備中松山へ5,000石加増され移封される。

その後を継いだ池田長常は、長男が早く死亡し、嗣子の無いまま33才で死去して、お家断絶となる。
「おさごの墓」の最後、おさごが池田長幸の奥方の侍女なら、長吉が鳥取城の普請をした慶長7年(1602)には長幸は15才位で、結婚していたか疑問だ。普請の終わりに近い慶長11年(1606)頃の事だろうか。それに岡嶋正義も書いているが、おさごが作州(美作:この場合は津山)に帰ったのなら、なぜ鳥取城に墓があるのか。

鳥府志で引用している「上雪」の部分だが、インターネットで検索すると、池田長常の死去で備中松山の池田家はお家断絶になったが、その後尾砂子(おさご)の働きにより、池田長信が幕府より旗本池田修理家として、井原に 1千石で再興される。
おさごは功により、後に神に奉られた。

さて、鳥取城のお左近が井原の尾砂子と同一人物なら、慶長7年(1602)に30才台としても、池田長常が亡くなった寛永18年(1641)は70才台となる。家名存続を幕府に訴えたのは老女とされているが、同名別人の可能性がある。

「容色艶美にして、智恵才覚常ならず。」つまり普通ではないので、それで御家再興を成し遂げたのかも知れず、井原の尾砂子と同一人物の可能性もある。
しかし、津山の森家に帰ったおさごが、近くとはいえ備中松山の池田家のために働いたのか。

検索した情報だと、尾砂子は、長信の生母、または乳母だったと、いろいろ言い伝えがある。出生についても、備中松山の農家、町家の出、武家でもごく身分の軽い者だろうとされている。おさごが長信の生母なら、池田長幸の奥方の侍女が側室になったのだろうか。

岡山県高梁市上谷町の威徳寺には、池田長幸と池田長常に並んでおさごの墓がある。また後世に井原陣屋内に「尾砂子大明神」を建立したが、1871年廃藩の時は陣屋が取り壊されて、井原市井原新町の井森神社に移された。

於佐古様の祠はその後どうなったのか。中坂神社に合祀されたのか、でも中坂神社はお稲荷さんだ。おさご、お左近、於佐古に尾砂子。一つ疑問が解けたら、また多くの疑問が湧いた。
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