龍峰寺尾根(竜峰寺東尾の平)4 平成21年7月12日 所在地:鳥取市栗谷町  編集 平成24年3月19日
Tに道がある。吉田浅雄氏の図にも描かれている。
その道の先におかしなものがある。コンクリートで固めた石垣が道沿いに。崩落防止工事なのか、この上に祠でもあったのか。
その先はすぐ道が狭くなり、全くの獣道になる。傾斜がきつく。道の幅は30から40cm位か。真ん中に道があるのが解りますか。

昔は道があったが、長年の風雪で摩耗したのだろうか。上がり下りして続いていく。
道は栗谷の人家が終わった先、広場に面した一段高い場所18に出た。
その高い場所から広場を見る。
図を再掲する。

Fの意味を考える。道は人一人しか通れない。実際、自軍の移動でも、人数が多い時はHの谷道を通るだろう。

この小郭は、Bから続く道を登ってきた敵を待ち受けるか、墓地Cに進入した敵を、ここから狙撃するためにある。通常は兵も居なかっただろう。

小さな郭なので鉄砲の人数はほんの数人。多数の敵がCに進入すれば、少しは時間を稼ぐことは出来ても、撃退することは出来ない。つまり多くの敵兵がCに進入しないために、谷の入口のC4には強固な防護を創っていたはずで、そこに多くの兵がいたのだろう。

この陣所の目的は、鳥取城を包囲することと、いざ数万の毛利の援軍が攻めてきた時、栗谷に侵入する敵を撃退することだ。尾根の上をだけでC4に兵を置かなければ意味がない。
H谷の様子。見てのとおり尾根上から攻撃できる。当然谷の入口には柵を立てていただろう。

写真右上方向にスロープ道がある。道から移動して攻撃するつもりだったのか。谷上のKは進入した敵を受け止める段か。

ついでだが、この谷を真っ直ぐ登った尾根には土塁がある。鳥取城方向ではなくこの谷に向けて土塁が作ってある。昔は何のための土塁か解らなかったが、尾根上の兵の移動を谷に侵入した敵に見せないためか、土塁からこの谷を狙撃するためだろう。
尾根先端部の図を再掲する。

WC4に敵が侵入した時の銃座。Xは栗谷の奥に侵入した敵への銃座。私は城郭研究家ではなく単なる素人なので、好き勝手に想像できる。

今は削られ埋められた尾根αの位置には尾根先端の曲輪があり、普段は見張りが立ち、いざという時には5人以上の火縄銃を持つ兵が構える。

その南の平地に面した緑色の柵には門の外や内にも兵士が並んでいた。敵のいない普段の見張りはαと柵と合わせても10人も必要はないだろう。

Mは指揮所と武将の居住場所。Cは兵士が居住する場所で、C群の中にも柵が設けてあっただろう。

右下の谷奥からは夏でも水が流れる。川は今は北端に流れを付け替えられているが、お寺が出来るまでは谷中央を流れていたと思われる。
ひょっとすると、18の舞上之砦までの尾根に常駐する兵のうち、かなりの数がCで暮らしていたのかも知れない。毎日通勤していたのか。

若干疑問もある。ピンク線で示した道は、Pより上では深く、西になると不明瞭になっていく。Vより西ではよくわからない。もしかすると尾根先端は岸を切っただけでα曲輪はなかったかも知れない。柵だけで防御したのか。
現在の尾根先端Zの様子。地岩を切り削っている。
池田家藩祖の祖先だけを奉ったお寺と言うことで、一般の檀家が少ないのか、敷地は広くゆとりがあります。

墓地の下側は緩やかなスロープ地形。
竹林で土盛状の部分も。
墓地の段は大きな高低差がある。

これは下がC3上がC2。ここが天正9年にどの様な状態だったかわかりませんが、まるで曲輪のようです。
上がC下がC2
龍峰寺尾根に戻る。尾根の上は平らななだけ。

吉田浅雄氏が「竜峰寺尾の先端に30X30mの削平地がある。寺社の旧地とも。要精査」と疑問を投げかけた龍峰寺尾根。F小郭を見つけ、想像でしかないが、その下にも曲輪があり、境内や墓地の位置が主要構造物だったと考えるなら、結構強固な陣所だったのかも知れない。
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