鷹山城の考察 平成21年6月14日 所在地:鳥取県八頭郡八頭町北山
カシミールのカシバードで、鷹山城の南斜面を描画してみました。

南斜面はとても急傾斜で、カシミールで測ると傾斜50度の部分もある。丹比氏がこの山に城を築こうとしたのはこの急斜面があったからだろう。

山中には他にも急な斜面があり、図の右端の斜面はさらに急で、登る以前に恐怖を感じる。
鷹山城の防御について、現時点でわかっていることを書きます。

赤線は今まで歩いたコース。ピンクの線は未調査。青線の谷も全く歩いていません。

@の尾根は傾斜も緩やかで、途中には南から北の谷に抜ける峠道もあり、@の数字辺りから上に曲輪群を造り防御している。山頂直下は急斜面です。

Bの尾根は、集落奥から城に登る大手道です。途中に曲輪を配置しているが、上部の傾斜はとても急で、登るには登ったが下るのが恐ろしい。

Cの尾根道は鷹山城で一番安心な道。Vの南端には防御曲輪がある。VからWに登る道は上部が急になり、山上直下に多段に曲輪を配置して防御している。

Dについては、鷹山城東尾根2の最後に書いていますが、最下部が急なため北の谷から回り込まないと登れない。見たところ谷からの道には気付かなかった。
Eは鷹山城東尾根を参考にして下さい。

Fの尾根は歩いていませんが、Xの谷口で敵を防がない限り、傾斜も緩やかなので後ろに回り込まれる。Eと同じように上部に小規模な防御曲輪を作っている可能性がある。

GFと同じだが、もし敵がここから登って来ても、山上ノ丸の背後の防御曲輪で防ぐのかも知れない。

A1の谷は、谷奥からWに登る直前の斜面が余りの急傾斜で、道が切っていない限り敵の侵入は考えられない。@の尾根に取り付くには斜面が急なので、尾根上を守備している限り問題はないだろう。

A3の谷も大手道に乗り移れなければ先が阻まれる。集落の人が「大手の横の谷は人間が掘ったものだ。」と言っていたがこの谷のことだと思う。人間が谷を掘れるものかどうか疑問に思うが、全部掘ったのではなく上部だけ深く堀足したのかも知れない。A6の上部にある幅7m長さ65mの竪堀を見れば可能性を疑う気はない。

A4の谷はCの尾根方向には移動できるが、Vの曲輪横の斜面は急で行く手を阻まれる。

A5の谷は上部の北斜面はとても急で、下の道路地点から見上げれば垂直に見える。実際は最高斜度52度位らしいが、50度の斜面は道が切ってないと登れない。南斜面への進入はVの腰曲輪で対処する。

A6の谷は北斜面は少し急で登りにくいが、南斜面は緩やかなのでEの東尾根曲輪群で防御するのだろう。上にも記したが、上部には鷹山城最大の竪堀が掘られており、この谷からの進入を想定したものだろう。
 鷹山城に馬を揚げる
続いて馬を揚げる道について考えてみよう。

@の尾根は下は緩やかなのだが、途中の曲輪群の堀切や山頂直前に急斜面があり難しい。Bは上部が急傾斜で無理だし、繋ぐ場所もない。Dは最下部の急傾斜が問題だが、A5の谷から回り込む道を作れば揚げられる。Eは一番下の傾斜はどうにか登っても、東尾根曲輪群より上が切岸が急で難しい。

Cの道は最も馬を揚げやすく、Vの尾根までは全く問題がない。尾根の上でも馬を繋げるし、東に2段ある腰曲輪のうち下の腰曲輪は少し幅が広く、馬を繋ぐことが出来る。また上の腰曲輪は長く、アップダウンもあるが馬場として使える。Vの尾根からそれぞれの腰曲輪にはしっかりした道が作られており馬の行き来も楽だ。ただ敵が尾根を攻め落とした場合は馬は敵のものになる。VからWに馬を揚げることは、上部が急傾斜な上にその上の曲輪の通過が難しい。

もう一つの可能性としてXからYを通る山志谷への峠道。私は歩いていないのですが、馬を歩かせることが出来るかも知れません。この道は生活道で炭焼きの炭を富枝に運ぶのに使われたと思われます。この道で峠まで馬を揚げ、尾根伝いに南下させれば、かなり遠回りになりそうですが山上の曲輪背後に馬を繋ぐことが出来そうだ。
 道の変遷について
道の変遷について北山集落の人に伺った。一番古いのはAの道で、山沿いEから富枝の集落に入り、Gから一つ山の北裾Iを通って西に通じていた。黄緑で書いた部分は不明です。富枝Fは、昔から若桜谷と北の細見谷からの物資の集積地で賑わっていた。Aの道は田畑の境界に跡を残し、Iより西も田畑の中に道筋が残っているはずとのこと。

後の時代になるとBの道が幹線道路になります。Aの道がHを経てBに繋がっていたものと思われる。この道筋の西側は重枝を経て今も残る。

その後Cの道が新設され、道沿いに人家が形成された。Dの道は現在の国道で、もちろんごく最近作られたものです。

「中書家久公御上京日記」を残した島津家久は、Aの道で鷹山城下を通過したのかも知れない。
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