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おさごの墓1 平成24年11月30日 所在地:鳥取県鳥取市東町
鳥取市街地の正面に屹立する久松山。江戸時代因州池田家32万5千石の鳥取城があり、羽柴秀吉の「鳥取城の渇(かつえ)殺し」の地でもある。

鳥取城は山頂の山上ノ丸と山麓の山下ノ丸に分かれ、かって山上ノ丸に天守があった。しかし高い山のためか、天守は元禄5年(1692)11月11日に落雷により焼失した。

その後、天守を失った鳥取城の象徴となったのが、写真中央右の石垣、山下ノ丸本丸(現在の二ノ丸)に築かれた御三階櫓だ。

御三階櫓という名は、天守の代用として建築された三重櫓のことで、各藩も幕府への配慮から天守の名称を避けたそうだ。

この御三階櫓は享保五年(1720)4月1日(今の暦で5月7日)の火事で焼失した。この火事は石黒火事と呼ばれ、鳥取城下吉方で発生した火災が、折からの南風にあおられ城下を焼き尽くし、城内も全焼させた鳥取藩史上稀代の大火だった。
その後、御三階櫓は享保十三年(1728)再建され、明治まで鳥取城の象徴として
存在したが、明治12年(1879)に陸軍省によって解体され、今は石垣だけが残っている。

前置きが長くなりました。

御三階櫓の石垣を拡大すると、左端に穴の空いた石が見える。
おさごの手水鉢と呼ばれる石だ。
鳥取の歴史を書き記した岡嶋正義(1784〜1858)。
彼が残した鳥府志(ちょうふし)にもこの石のことが描かれている。

図は鳥取県立公文書館発行の「鳥府志図録」30ページに掲載された「オサゴノ手水鉢之図」

図に黄色の丸で「新」と書かれているが、これは岡嶋正義が享和、文化の前後を想像して描いたという「図合符」だ。
足元に行ってみると、石垣は高く傾斜が強い。

本来、城の顔とも言える目立つ場所に、わざわざ手水鉢を使わなくても良いと思うが、これは意図的に入れられた物のようだ。
手水鉢の下にある案内板。

関ヶ原の戦いの後、東軍の池田長吉が慶長5年(1600)因幡鳥取6万石の城主となりました。池田長吉は、慶長7年(1602)から数年かけ鳥取城を大改修します。

高い石垣は難工事であったが、お左近の手水鉢を築きこんだところ無事完成したとのこと。
鳥府志図録にはおさごの墓の図も載っている。

墓の場所は「天球丸より中坂口を少し上がった所にあった。」と書かれている。
私は鳥府志図録の絵を見ても、これが何処なのか全くわからなかった。

今年、鳥取市で開かれた「織豊期城郭研究会 2012年度 鳥取研究集会」の見学会で、
鳥取市教育委員会の文化財専門員の方からおさごの墓の場所を教えて頂いた。

今まで数多く登っていた、鳥取城中坂道の登り始めが墓のあった場所だった。

図に「天」の図合符があるが、これは野間宗蔵の描いた「違藁」の続編の天明前後の
模写を示す。岡嶋正義の時代の絵ではない。

図は鳥取県立公文書館発行「鳥府志図録」25ページ「オサゴノ墓之図」
おさごの墓の場所が描いてあったのは、鳥取県立博物館所蔵の「天球丸御絵図面」。
この図は、博物館に掲載許可申請をし、画像データを頂いたもの。

鳥府志図録に描かれているのは「おさごの墓」だが、この図では祠に変わっていて、
鳥府志に「(七代藩主池田斉邦の実母)喬松院が祠を寄進された」と書いてある。

絵図面では、祠の隣に八幡宮様があり、間にある池には橋が渡されている。
図の描かれた時代には、今の登山道は塀と柵で遮られ、
中坂道には天球丸から登っていたようだ。

現在の登山道は黄色の線だと思う。

鳥府志図録の「オサゴノ墓」の向かいに八幡宮が描かれていない。
またありそうな雰囲気もない。絵を描いた時代には無かったのだろうか。
おさごの墓の部分をトリミングし回転させる。

この図は鳥取県立博物館の写真の等倍だが、フィルムカメラで撮影したものをデジタル化したためか、文字が不鮮明だ。

文字は変体仮名で「於佐古様」と書かれているらしい。私は昔の字が苦手で「佐」が読めないのです。

調べると、東京の蕎麦屋さんに書いてある「そ」の変体仮名が近い気がするが、「そ」は左の上が突き抜けている。書道をされる人に聞いたら、「佐」らしいと言うことで、そうしときます。

次は変体仮名の「古」に濁点が書かれているので「ご」と読めます。

鳥取市教育委員会の資料に載っていた写真は、発掘調査のため新たにデジタルカメラで撮影したようで、文字がもっと鮮明でした。
その場所を実際に見てみる。鳥取城天球丸周辺は現在発掘調査中です。

図の道に板を渡した様な所が、中央の赤白のコーンの排水施設に渡された橋だろう。
さて長年の謎が解けてうれしいが、これで万歳とはいかない。

話しに少し疑問があるのだ。大体お城の中に墓を造るのはおかしい。まして登城路のすぐ横に。
続きは次のページで。
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