秀吉の空堀を歩く Part1 平成19年5月13日 所在地:鳥取市東町・円護寺・栗谷
天正9年(1581年)羽柴秀吉が鳥取城を包囲したとき、本陣の太閤ヶ平と鳥取城の間に長さ700mの空堀を構築した。今日はまだ歩いていない、からづつみ南の空堀中央部と南側を歩く。
私は遺構を調べるため空堀を歩きますが、このコースは藪もあり一般の方が簡単に歩ける所ではありません。ご注意下さい。

円護寺の経家公墓所に駐車し、5号歩道を歩いて久松山と太閤ヶ平の分岐に到着。ここをひょうたん池方向に降りていく。
道は谷に逆S字に降りてゆくが、最初のカーブで左にからづつみ西平坦地の遺構が見えてくる。早速進入する。

下の略図A地点。
いくつか削平地がある。吉田浅雄氏は「後年江戸期つつみ構築の採土跡か その上方尾根は陣跡と推定」と述べている。

採土でなくとも、工事の現場事務所と考えても良いかも知れない。
削り残りなのか、おかしな地形があった。
平坦地を突っ切るとすぐからづつみに着く。今日は時間が早いので堤を良く見る。

土手の下部は、丁寧に石を割って、隙間の無い石垣が築いてある。放水口はこの部分には見あたらなかった。
堤の上側に行く。水が出ているところに排水口はありません。常時排水するのであれば、石で組んだ排水口を造らなければ水により浸食される。
堤の上流側を見ると平坦な地形になっている。

考えられるのは、からづつみは昔は水が貯まっていて、水の運んだ土が池の底に堆積して平坦な地形を作った。

その後水が抜けて、水による浸食が始まっている。明治以降に水が漏れだしたのかも知れない。
吉田浅雄氏の「秀吉鳥取城攻略の本陣及び付近遺構要図」を元に略図を作りました。

水色は谷の水線を表し、川が流れているわけではありません。緑色は尾根筋を示します。赤線は道です。
お絵描きが大変でした。
堤から空堀に向かうと大きな杉の木がある。

今日は晴天。樹木の新芽がまだ伸びきらないため木漏れ日が強く、スポット部は色が飛び、木陰はアンダー過ぎて、まともな写真が撮れませんでした。見にくい写真で申し訳ありません。
からづつみ上流の削平地で先日見た石列は、良く見ると帯状の部分がある。

石垣と言うより土の移動防止に貼り付けた物かも知れない。
略図B地点。
更に上流側北東の郭に進む。郭を繋ぐ道が斜面に残っている。

略図のD郭群手前。
郭は多段に構築されている。
一番奥まで進むと、谷の上流側に白い花をつけた木が見えた。
後で太閤ヶ平から帰る途中、遊歩道からもこの白い花が見え位置関係が判った。

D郭群より。
削平地には杉の大木が生えている。
からづつみ南東の竪堀は北西側に比べると小さいが、自然の谷が2本走っており、それも含めると十分な遮断力があるようだ。写真はCDの間の小さな谷。谷に杉が生えている

しかし、からづつみの出来る以前の谷底の形状は不明で、どの様に遮断していたのか判りません。
Bに戻り竪堀横の尾根を見る。直ぐ右に竪堀がある。
写真左はC郭群との間の谷。
竪堀の間の尾根。左右が堀です。

コントラストが強すぎてひどい写真です。
左が自然の谷、右が竪堀。
竪堀。この辺りは秀長の陣所の辺り比べ、堀と堀の間が少し離れている。

からづつみの北西の堀とは違い、2本の竪堀の東側に柵が築かれていたのかも知れない。
傾斜が緩やかになってくる。
E竪堀の東側には複数の段郭がある。

ここは少し傾斜が緩く、突破されると太閤ヶ平の秀吉本陣西側の尾根に取り付かれるので、厳重に郭が構築されているのだろう。
E地点。堀から見た郭の切岸。この上に柵か菱垣を築いていたのだろうか。

この先の中尾根の諸陣営横で、斜面の傾斜が強い所は空堀が途切れている。
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