龍峰寺尾根(竜峰寺東尾の平)1 平成21年7月12日 所在地:鳥取市栗谷町  編集 平成24年3月19日
栗谷町の龍峰寺北の尾根にある「竜峰寺東尾の平」については、鳥取市の城郭研究家 吉田浅雄氏が、天正9年(1581年)に鳥取城を包囲した秀吉陣営を図化した「羽柴秀吉の天正鳥取陣営跡之図」で「竜峰寺尾の先端に30X30mの削平地がある。寺社の旧地とも。要精査」と書かれている。つまり吉田浅雄氏が見ても「平らな所はあるがよくわからない。詳しい調査が必要だ。」と疑問を投げかけている。

平成20年6月8日、龍峰寺尾根を下図13の舞上之砦から尾根先端まで降りた。尾根上には遺構が続いているが大きな物ではない。Mに尾根で一番大きな削平地群があるが、ただ平らなだけでどちらを防御しようというような方向性が感じられなかった。兵士達は尾根の上で昼寝でもしていたのだろうか。神社の跡地と言われればそうかもと思うような物だった。

何かおかしいと考えたが答えは出なかった。翌年の6月ふと気付いた。見落としている南の斜面に何かあるかも知れない。平成20年に歩いた時、下から尾根上に登る道が見あたらなかった。ひょっとして尾根南にその道があるかも知れないと気付いたのだ。

平成21年の6月28日・7月5日・7月12日と歩いて得た答えは少し珍説だ。お寺の造成で昔の地形は不明だが、「龍峰寺尾根の兵の多くは、平地より一段高いCからC4の位置に降りていた。」と言う妄想。13から尾根先端まで約500m、13からMまで約350mあるが、13からMまでの尾根上の遺構は単に繋ぎの曲輪で、主要部はC群とそれを押さえるMだったのではないか。

なおC4にある龍峰寺は、池田家によって創られたお寺で、因幡池田家の先祖池田忠継・輝政・忠雄の位牌が安置されています。詳しくはフリー百科事典Wikipediaの興禅寺を参照して下さい。
赤線は遺構のある主尾根筋。ピンク線は少しは遺構のある道筋。

緑色線は歩いたが何も無かった尾根。水色は歩いていない尾根。

76尾根から分岐を探し下ってみたが何も無い。

9は傾斜が急なので、木に掴まりながら下から登ったが、5の直前に腰曲輪があっただけ。

10の尾根は下ってみたが何も無かった。
7を下り9を登り10を下って帰ったので、傾斜の急な8の尾根はまだ歩いていない。
柿ヶ谷小松林の陣所5に陣取った武将は、味方の陣地C群に伸びる尾根には兵を置かなかったようだ。
尾根の先端部の図。
ピンクの線は道らしき跡。

現在尾根に登る道はYにあるが登りにくい。平成20年もここから降りた。

栗谷全体に言えることだが、山の斜面は急傾斜で、特に龍峰寺尾根の北側は急だ。南は少し緩やかな部分もあるが、登れる所は少ない。

何だか削平地が沢山描かれているが、単に平らな部分をピックアップしただけで正確な縄張り図という訳ではない。
Mを中心とした拡大図。
平成21年の6月28日、龍峰寺の境内から登る道Aを歩き、Fを中心とした道遺構を見つけた。

Aは、境内から墓地Cに直接登るために、後世に付けられた物だと思う。

尾根上の削平地はMが一番高く、L及びQは一段低い。NMより少し低いが段差は小さい。Pより右の尾根上遺構は傾斜した曲輪で居住性が低い。

この地図は、歩測もほとんどしておらず、正確ではありません。実際、等高線が現場の地形と整合しておらず、正確に測量しても位置関係がおかしくなります。

これは平野部は割合正確に測量できますが、山地は地面ではなく樹木の高さで測量されるため正しい標高の地図が作成できないのです。

これらの遺構は龍峰寺の敷地内にあります。許可を得てから入って下さい。私は偶然お会いしてお許しをいただきました。
龍峰寺の入口。石垣と階段になっている。

天正9年(1581年)はこの段差はなく、奥の墓地にかけて徐々に高く傾斜するスロープ地形だったと思う。この位置には当時柵があったと思われる。
境内に上がると道の先にトタン板がある。
イノシシが出没するようだ。ここにはセンサーが設置されていて、人が通るとチャイムが鳴る。
トタン板を越えると、すぐ前が道Aの登り口だ。
道には電気柵が設置されているので注意して跨ぐ。
道は山腹を登っていく。

この道が作られた時期は不明だが、奥の墓地Cまでの近道として作られたようだ。何れにしても天正9年にはこの道は無かっただろう。
道を奥の墓地Cまで登ると、左側にBの段がある。
B地点で後ろを振り返ると右側に道筋らしき物が見える。

木漏れ日のコントラストが強く、わかりにくい写真で申し訳ありません。
左が登ってきた道A。右が尾根への登り口です。この道は人が一人しか通れません。

藪がかかって判りにくいかも知れませんが、足を踏み入れると道筋はハッキリしています。
登り口。かなり古い道の跡だ。
Bの上には竪堀状の窪みDがある。この窪みが人工の物か、斜面の自然崩落なのかは不明。

写真で見るとそう窪んでいないようだが、斜面が急なので登りにくい。道は写真左の外を登って、この窪みの上を通っている。

またこの右上には、人の立てる台のような場所がある。この堀を上ってくる敵を槍でちょんちょんするつもりだったのか。でも弓で攻撃されたらすぐ怪我しますよ。
道の様子。
図のE。小郭と言うより踏み台程度。削平かと言えば?と答えるしかない。

傾斜を見て解るだろうが、ここから尾根のOU方向に道を付ければ割合楽に登れる。当時は柵でその方向に移動できないようにしていたのか。道は反対方向に進む。
撮影したのが2年以上前なので、この石列がどの辺りにあったか忘れた。

右の石は川原石のようだが左は違う。人間が人為的に組み合わせたものだ。
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